仕事場の北側の壁一面に同規格の棚が3基並んでいる。
高さは腰より少し高いくらいで、天板にはまだ一度も足を通していない革製の重登山靴やアンティークもののキャラバンシューズ、これまで飲んだ中でも特に印象に残ったワインの空ボトル、鹿の角や随分昔に作った少々稚拙なバードカービングなどが乱雑にディスプレイされている。
中間の棚板はそれぞれ二枚づつで3段のスペースを確保していて、左と中央の棚はかつての趣味であるフライフィッシングのリールやナイフなどのアウトドア小物、今では完全にアンティークとなったフィルムカメラ機材などが半分ほどを占めており、中段の一部と最下段にはデザイン関係の書籍や冊子が詰め込まれている。
残りの右の棚は山岳関係の書籍や雑誌、自然系の図鑑、資料がほとんどである。
ただ、中央の棚の最下段の半分ほどは右の棚からあぶれた感じで、今では中々手に入らない山や自然系の大型の写真集、画集、図鑑が場違いな感じで収められているのだが、これらは全て今は亡きガイドの大先輩から譲られたものだ。
その方は20歳年長で、長らく同じ地域に住んで、親しくお付き合いもし、共同で自然ガイド組織を立ち上げたり、数々の山行を共にする中で様々なことを教えられた恩師的な方であったが、亡くなる少し前にこれまで集めた貴重な蔵書の中から、自分が持っていても仕方ないから、といってわざわざ届けてくれたものを仕舞い込んでは申し訳ないので敢えて目につくように保管している。
その中に「ガストン・レビュファ」「開高健」「木下杢太郎」などの写真集や画集に混じって浦松佐美太郎の「たった一人の山」という古書がかなり日に焼け、また所々傷んだ背表紙を覗かせている。
浦松佐美太郎は1925年(大正十四年)にロンドンに留学し、のちにジャーナリストになった方で、留学中にヨーロッパアルプスの高山を40座も登ったという当時としてはエリート階級の青年アルピニストだったのだろう。
その訪欧中の登攀と日本での登山を紀行にまとめたものが「たった一人の山」で、翻訳物を除くと山岳紀行としては結局この本しか残さなかったという。
実はまだ読んでいない。
ある時期はウォルター・ウェストンから尾崎喜八、木暮理太郎、田部重治、串田孫一、小島烏水、武田久吉、その他古典的な山書と言われるものは片っ端から読み漁ったものだが、山から遠ざかった今、もう一つ食指が動かないということらしい。
だから時々その色褪せた背表紙を眺めるだけである。
気が付けば登山を始めてから28年になる。
ここ数年はほとんど数に入らないけれど、40歳過ぎてから始めたにしても四半世紀近く登ってきたわけだ。そしてその中で「たった一人の山」はどのくらいあっただろうかと、振り返ってみる。
思い起こせば中学時代の学校登山以来、成人後の初登山からして「たった一人」の山行だった。
ここでいう「たった一人の山」はただ単に単独登山という意味ではない。
登山口から山頂、そして下山まで一切誰にも会わないということである。
1997年11月25月。
なぜこの日を選んだのかはっきりとは覚えてはいないが、たまたま時間が空いたか、気が向いたというほどのことであったのだろう。貧相な装備を携え、意を決して赤岳を目指した。
ルートは県界尾根コース。登山初心者いきなりのコースがここだった。
結果は森林限界を超えた辺りの夏はハイマツ帯を貫く凝灰岩の露出した鎖場付近で敗退。
麓からは確認できなかった凍結した雪に鎖が埋もれ、引き出すことも叶わず、しばらく雪の表面に露出した礫岩の頭に手足を託して取り付いたものの、途中で進退極まり勇気ある撤退、というよりも文字通り進むことも戻ることできないという滑落寸前の事態に追い込まれ、這々の体で後退したと言うのが真相である。
一つ間違えば何百メートルも転落して、今この文章を書くこともあり得なかったと思うと、ただただ幸運に感謝しなければならない。
27年前のこの日。結局山中では誰にも会わなかった。
今思えば、そもそも既に高山では完全な冬期であり、ましてやコース的にも厳しい山梨県側からの登山者など少ない上に、アイゼン・ピッケルの携行もない(持っていなかった)となると無謀としかいえない登山だったわけだ。
知らないとは恐ろしいものである。
敢えて終日誰にも会わなかった山行を数えてみると、手元にある資料(デジタルカメラになってからの写真記録、登山記録手帳の一部をデータ化したもの)から拾い出しただけでも確実と思われるものが49回ほどある。
この他に未整理な登山記録を調べればもう数回あるいは十数回くらい増えるかもしれない。
いずれにせよ50回以上は「たった一人の山」だったわけだ。(この中にはハイキング程度のコースや近在の低山は含まれていない)
そもそも独立志向が高いので、敢えて登山仲間や地元の山岳会などには関わりを持つ気もなく、始めの数年は一人で気ままに登ることが多かったせいもある。
ある意味でそれはその後様々な登山を重ねてゆく中で、仲間と登る機会も増え、果てには生業となるに至っても、貴重な修養期間だったと思っている。
相変わらずの登山ブームが続く昨今、メジャーな山は当然としても、かつては超マイナーだった山域でも登山者を見かけることが多い。
冬期でもSNSには若者の投稿は引も切らないという有様である。冬山も特別なものではなくなっているようだ。
そんな中で「たった一人の山」を経験するのは今では貴重なものとなってしまっているのだろうか。
忘れられない山行がある。
今から18年前、2007年正月明けの5日から6日にかけて笠取山をテント泊で周遊したことがあった。
動機は覚えていない。
とにかく未知の山域ということと、山書に頻繁に登場した雁坂峠を越えてみたい(実際には通過したのみだったが)という願望からのセレクトであったということかもしれない。
初日はあいにくの曇り空の下「道の駅みとみ」に車をデポし、広瀬集落から広川沿いに林道を歩き始めた。途中からは数日前に降ったと思われる雪が僅かばかり見られるようになったが、辿り着いた雁峠ではほとんど消えていた。
途中から空も晴れ上がったので周囲の展望も素晴らしい。
行手に笠取山を眺めながら、稜線を辿る。
テント泊装備なので荷は重いが、大したアップダウンもないので快適に歩ける。
笠取山と小屋への分岐から小屋まではそれなりの距離があるのでまずは近い笠取山へと向かう。
ザックは重いが、途中でデポしても季節が季節なので何かあってもいけないと思いそのまま担いだ。
山頂直下は防火線を兼ねた一直線の登り、それなりに息が切れる。
標識と三角点のある山頂は黒木とシャクナゲに覆われて展望はないが、手前の山梨百名山の標識のある展望地からは遠く富士山や大菩薩嶺、越えて来た雁峠方面がよく見えた。
しばし休憩した後、一旦稜線伝いに山頂を越えて、その先の分岐から水干へと水平道を戻った。
水干は多摩川の源頭とある。東京湾まで138km。
小屋への分岐まで戻りテント場へと向かう。
テント場に着くと案の定人の気配はない。
正月明けとはいっても小屋番さんぐらいは居るかなと小屋を覗いてみても静まり返っている。
仕方なくテント代金だけ置いて設営にかかった。
地形的に日当たりがいいのか、テント場には雪もなくスムーズに設営を完了。
この分ならさ程寒くもなさそうで安心する。
とはいえこの人気のないテント場でのソロテン泊は少々寂しい。
誰か来ないかと待ってみたけれど結局誰も登っては来なかった。
時期的に日没も早く、早々に夕食を済ませ就寝とする。
暫くすると周囲で物音がするようになった。
多分鹿である。
テントの周りを歩いたり駆け回ったり、時には足を踏み鳴らして威嚇してくるようだ。
中にはフライシートに悪さするのではないかと心配するぐらい近寄った個体もあって肝を冷やす。
暫くそんな物音を聞きながらいつの間にか眠りに落ちた。
明け方かすかな物音で目が覚めた。
テントのフライシートをサラサラと叩く雪の音である。
外を覗くと一面の銀世界。既に20cmほど積もっている。
状況が一変した。
雪は降り続いているので、早々に行動に移らないと状況は悪くなるばかりなので、朝食もそこそこに済ませ、テントの撤収にかかる。
雨天の撤収よりはましだが、それでもシュラフも他の装備もザックに入れる端から濡れてしまう。
ようやくテントを収納して孤独なテン場を後にした。
ここからが思案のしどころ。
予定通り雁坂峠まで縦走するか、往路を下山するか。
通常なら未知の山域で他の登山者も居らず、避難できる山小屋も開いているか分からない状況で、降雪の中未踏ルートを進むというのは無謀といえるが、雁峠まで戻ってそこで判断することに決める。
雁峠でも雪は降り続いていたが、視界が無いという程でもなく、コースも大きな高度の変化もなさそうなので、結局冒険心も手伝って先に進むことした。
雁峠から2004mのピークまで200mほど頑張れば、あとは雁坂峠までの最高点2158mの水晶山までは緩やかな登り。そこから雁坂峠まではやはり緩やかな下りとなる。
積雪は20cmぐらいなので歩行に大きな支障とはならないが、ノントレースの登りにはそれなりに難儀した。
水晶山を越えて雁坂峠に向かう頃には風雪が一層激しくなる。
視界も悪くなり、多少不安を感じる。
峠の手前は樹林も切れて風の影響からか吹き溜まりになっている箇所では膝ぐらいの積雪になった。
12時少し前に雁坂峠着。
予定ではここから埼玉県側に少し下ったところにある雁坂小屋で昼食のつもりだったが、あまりの風雪の凄まじさと山梨県側に下る峠道が雪ですっかり埋まってしまってルート判断が難しそうなので、少しでも早く峠沢に降りるべく休憩も取らずに下山に掛かった。
かすかな道形を目当てに慎重に下る。
この辺りは動物的な勘が必要になる場面だ。
なんとか膝上ぐらいまである雪の斜面を下り切り、沢に沿った登山道を探し当てて、ほっと一息付いた。
このコースもさほど往来もないと見えてルートは明瞭ではない。
所々にある赤布を目当てに雪で隠れた登山道を慎重に辿って長い下山を終えた。
今でも印象に残る「たった一人の山」である。
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古礼山から水晶山間の登山道から雪に霞んだ谷を見下ろす。