夕方から本格的な雪になった。
この分だと久し振りのまとまった降雪になるかもしれない。
これで乾燥し切ったこの高原もようやく冬本来の佇まいを取り戻すのだろうか。
思えば去年も多くの山に登った。
低山も含め入山した日数だけ数えれば約90日。
半ば仕事とはいえ、良く歩いたものだと思う。
とはいえ専業ガイドの中には年間200日以上山に身を置く強者もいるくらいだから特別多い数字でもないのだが。
同じ山に複数回登った場合もあれば初見参の山もそれなりにあった。
例外なく付いて回るといった金峰山、瑞牆山、赤岳などは地元の山とはいえ今まで一体どのくらい足跡を印して来たことか。
初登頂、といえば古くはエドワード・ウィンパーが活躍したヨーロッパアルプス金の時代と言われた1800年代の半ばから始まり、20世紀の後半にヒマラヤ8,000m峰が制覇された辺りで一応の最盛期を終える。
地球上には未だ少なからぬ未踏のピークが残されているのかもしれないが、「ジャイアンツ」と呼ばれる死のゾーンを抱える高峰が征服された今では人類の夢とするには少々もの足りないのだろうか。
初登頂争い。そんなまだ未知の土地に多くの謎やそれ故に魅力と栄光に満ちた世界が広がっていると信じ、自らが先んじることのみを唯一の目的としてそのただ中に分け入って行った人々にはそれは紛れもない冒険だったに違いない。
1999年にその遺体が発見されたジョージ・レイ・マロリーもそんな冒険者の一人だった。
1921年からのエベレスト三度の挑戦。その都度アタック隊に選ばれた強靭な神経と体力を兼ね備えたイギリス登山界を代表する美青年登山家も1924年にはとうとう最終キャンプに帰ることは出来なかった。
絹やウールの衣類を何重にも重ね着し、スパッツ替わりにゲートルを巻いて、足にはアイゼン替わりの鋲靴。装備といえば毛皮の飛行帽にゴーグル、ピッケル、麻のロープ。それでも彼らは今では考えられないぐらいのこの簡素なスタイルで8,000mの高度を超えたのだ。
最終アタック隊のマロリー達は酸素ボンベを携行したが、その直前に山頂を目指したフェリックス・ノートンとサマヴェルの二人は無酸素で遥かなる高みを目指した。
そして途中で脱落したサマヴェルを残し、ノートンは一人で進み続け、現在ではノートンクーロワールとして知られている8,572mの地点まで迫った。雪盲と疲労で引き返さざるを得なかったけれど、この無酸素での最高到達記録は1978年のメスナーとハーベラーの無酸素による完全初登頂まで破られなかった驚異の記録でもあった。
結局最終キャンプに戻らなかったマロリーとアーヴィンの二人が山頂に達した可能性は低いといわれている。それでもそれが完全に否定される証拠がない限り謎は永遠に残り、彼らの冒険の旅は終わらない。
相変わらず行方不明のアーヴィンと共にマロリーは今も8,160mのエヴェレスト北壁に静かに眠っている。
高所カラスについばまれないように発見者達によって積まれた石の棺に覆われたままで。
慣れ親しんだ既知の山にも常に新たな発見はあるといわれるけれど、確かにその通りだと思う。
季節、天候、体調、パートナー等によって見えるものも違えば、楽しさや苦しさもも異なり、分かち合う喜びも自ずと変わって来る。
だから山はやめられない、ということになる。
反面年齢の割には浅い山歴故か未だ未踏の山頂が国内に多く残されているのもある意味で幸福なことだ。
純粋な意味でのプライベート山行が減った今、新たな山域を目標とするのは専らガイドの下見に限られる。
それでも未知のピーク、山稜や谷を踏破してゆく行為は常に何らかの期待と不安と緊張をもたらしてくれる貴重な経験であることに変わりはない。
そして目指す山頂は何故かいつも遠い。
それなりの経験を積み、必要充分な装備を持っていても向かう先に現れるであろう悪場や難場は常に気掛かりだし、景色を閉ざす憂鬱な樹林はいつ果てるともなく続いている。
以前のように悠々自適というわけにはいかない日程の中で予想できない時間の経過に焦ることも屢々だ。
にもかかわらずそこには多くの新たな出合いが待っている。
たとえそれがどんな種類のもの、たとえば花であれ、野生動物であれ、人であれ、全き良きものであれ、悪しきものであれ、いずれにしろ堪らなく刺激に満ちたものであることは疑いない。
だから山はやめられない、ということになる。
今年もいくつか新たな山へ訪れる機会があればと願う。
たとえそれがどんな小さな山頂であれ、そこへ至る未知の山旅は常にささやかな冒険の喜びを伴っているだろうから。