富士南麓の稜線では少しだけ早い春が咲いていた。
山頂へと一直線に伸びる登山道は増々傾斜を増し、先を急ぐ心とは裏腹に歩みは遅くなるばかりだ。もやの多くかかった早朝の空は今ではすっかり晴れ渡り、杉林を抜ける頃には汗ばんだ背中に強い日差しを投げかけて来る。目的のピークまでは後20分ばかりのところまで標高を稼いだはずだが、そろそろ少し大きな段差がおっくうになってくる。
そんな時は思い切って一息ついてみる。とはいっても周囲を見渡してもまだ芽吹きも始まらない雑木林の梢が白っぽく輝き、遠くに南アルプスの黄ばんだ雪稜が霞んで見えるばかり。まだまだ無彩色の早春の世界だ。
歩き出そうと足元を見ると一輪の白い小さな花が目に止まる。
アズマイチゲ、あるいはキクザキイチゲ。キンポウゲ科の春告げ花。
内側に向かって湾曲する細い花びら状のものは花弁ではなく萼(ガク)片。大きさの割にその作りは精妙でいつまでも眺めていられる花のひとつ。
人気の全くない稜線を辿って古い峠に出た。
傍らには苔むした石仏が並び、往時を偲ばせるのはいいけれど、古峠に似つかわしくない林道が横切っているのには閉口する。
それでも傍らの草むらには今年初めてのタチツボスミレが咲き、キブシの梢からは小さな黄色い鐘が午後の日差しを透かして並んで輝いているのはまるでちいさな灯しびに出会った気持ちにも似ている。
稜線にはスギやヒノキの植林地が多い。
そのせいか途中から鼻水が止まらなくなる。とうとう来たか、の思いが脳裏をかすめる。
しかたなくティッシュを詰め込んで応急処置。
口からだけの呼吸ではそれなりに苦しいけれど、そんなことも言っていられないほどの量が滴る。
誰にも会わないのがせめてもの救いとあきらめることにした。
途中小さなピークを越えて里におりると、川沿いのソメイヨシノにはすでにいくつかの蕾みが開き始めていた。
可憐なアズマイチゲないしはキクザキイチゲ。
タチツボスミレもまだ咲き始めたばかり。
キブシ。壺型の花にはちゃんと花弁が4枚ある。名前はヌルデの代用として黒色染料を取ったことに由来する。