今日から三月。
とはいえ、今朝も氷点下の気温です。
昨日からの雨も樹々の枝先に頼りなげに凍り付いて曇った空に鈍い光を放っています。
晴れていればこの仕事場の窓からは鳳凰三山を従えた南アルプスの連稜がよく見えます。
この時期には真っ白に雪の衣をまとった北岳の鋭峰がプラチナ色に輝いて、早朝にはバーミリオンからオーレオリンへと段階変化する華麗な表情を見せてくれるのですが。
この地に住んで既に30年。
その間常に山と向き合って来たわけでありませんが、気が付けばここから見渡す主だった山々はほとんど登ったことになります。
様々な紆余曲折の中で山や自然との関わりを生業とすることになったのも、大袈裟にいえば、ここに居を定めた必然といえるでしょうか。
きっかけは鳥でした。
都会から八ヶ岳の山麓に舞い戻った年、荷物に入っていたのはヴィクセンの9倍の双眼鏡とNHKブックスの野鳥のポケット図鑑。今ではどちらもすっかり古びてしまいましたが、自宅周辺に飛び交う小鳥を眺めては一々感動していたのを覚えています。
思えばその年の数ヶ月間の日々が長い自然との関わりの中での純粋で最も幸福な時期だったともいえるかもしれません。
周辺に見られる野鳥の姿がそれとなく見分けられるようになった頃には既に第二次のアウトドアブームの渦中にいて、さえずりの聞き分けまでには至らぬうちに、禁断のフライフィッシングの世界にのめり込んでいました。
その中毒症状は凄まじく、20代から30代の大半をそれに依存せざるを得ない程強烈な魔力にねじ伏せられていましたが、どんなに熱狂的な祭りにも朝は訪れるもので、40代に入ると導かれるように山へと足が向いていったのも自然の成り行きであったといえばそれに違いありません。
タイトルに掲げた言葉は旧約聖書の「詩編」中に納められた121編の冒頭です。
私の住む八ヶ岳・清里高原の開発者の一人、財団法人キープ協会の創立者として有名な故ポール・ラッシュ氏の座右の銘として知られ、同協会の敷地入り口の門柱にも刻字されています。
そしてこの詩編を愛したもう一人が「日本アルプスの父」とも称されるウォルター・ウエストン。明治21年に宣教師として来日し、計三回、延べ13年間滞在する中で中部山岳の名だたる高山を踏破したことはあまりにも有名ですが、それ以上に二冊の著書を通じて日本の山岳や日本の文化・習俗、また日本人の美徳を世界に紹介した功績は今なお色褪せることはありません。
この両者、共に英国国教会系の基盤を持つ点でも、浅からぬ因縁を感じさせます。
そしてまたこの詩編が太宰治の短編「桜桃」の冒頭に使われているのを知ったのはつい最近のことですが、特にダザイストというわけでもないこの身にとっても、少し得をしたような気になるの何故でしょうか。
こんなわけで暫くは迷走しながら「我が助けは何処より…」の心境で八ヶ岳をはじめとする中部山岳をフィールドに活動してゆくことになりそうです。
そして「我が助けは天地を作られた主よりきたる」と続くこの詩編のように常に謙虚に山や自然と向き合いつつ、様々な出合の一場面をこのフィールドノートに綴ってゆきたいと考えています。
これからもどうぞよろしく!