歩き始めて40分。杉檜の混成林を抜け出ると幾分明るくなった。
シデやカエデの多い南に開けた急斜面にはカタクリの葉がようやく顔を出したばかりだ。
雨に濡れた落ち葉の合間から顔を出した葉群れは片葉のものばかりで、双葉が揃い莟を付けているものはわずかに一輪のみ。
この森にも春はまだ浅い。
少々退屈な最初のピークを過ぎ、少し先で合した林道をゆくと峠に出る。
武田家滅亡の悲運を背負い塩山から奥深い山中をわずかな供と共に辿り、苦難の末に八王子まで逃れたと言う姫君の伝説が残る峠にはあまり似つかわしくない立派な林道と看板が目立つ。
ここからはブナやナラの繁る素晴らしい尾根歩きとなった。
かなりの大木も交えた明るい森は未だ芽吹きの気配もなく、褐色の落ち葉が厚く林床を埋めている様子は初冬の景色とも錯覚する。
霧が流れ、瞬く間に行く手の景色を霞ませてゆく。
出会ったのは最初のピークで休んでいた軽装の青年二人だけ。
峠からは完全に貸し切りとなった。
雨が少し強くなる。
春という言葉は草木の根や若枝に吸い上げられた水気が満ちて「張る」、つまり新しいエネルギーがみなぎる、というところからきていると聞いたことがある。
それを示すかのようにナラやクリの幹からは泡状の樹液が滴り、根元に大きな泡の固まりを作っている。
一人をいいことに口を寄せてそれをすすってみる。
無味無臭、それでも心なしか薄甘い春の味わいを感じたような気になってみる。
目当ての花はほとんど咲いていなかったけれど、早春の稜線には心落ち着かせる森の想いのようなものが来るべき本当の春に向かって穏やかに息づいていた。
見事な落葉樹の森を後にすれば、少々退屈な下山路だけが待っている。
わずかに見られたカタクリの蕾。
タマゴケの一種も雨に鮮やか。
奈良倉山山頂。無論展望は無かった。
松姫峠。小菅村の看板だけが立派だ。
鶴寝山山頂は静かな樹林の中。
ブナの巨木も霧に霞む。
下山途中、ワサビ田の脇に多かったヨゴレメコノメ。
小菅の湯の庭に咲いていたヒマラヤユキノシタ。西方の地からよく来たね。