今朝の気温はマイナス5℃。
昨日はマイナス8℃(どちらも7:00頃)だったので、12月も中旬になってようやく冬らしい寒さになってきました。
そのせいか餌台に群がる留鳥たちも数が増えてはきましたが、シメやアトリなどの冬の常連たちは未だ姿を見せません。
安曇野のコハクチョウも相変わらず飛来が少ないようですし、北海道に遠征したバーダーのブログなどによると現地の自然ガイドが嘆くほど冬鳥の飛来が不調のようで、この現象は八ヶ岳周辺だけのものではないようですね。
気候変動、地球温暖化の影響といえばそれまででしょうが、野鳥撮影を始めたここ数年の変化を見ても、今年は何か異常なものを感じます。
とはいえ季節ごとの定点調査などのデータ取得を続けているわけではないので、あくまで感覚的な印象ですが、単なる杞憂であって欲しいものです。
紅葉も終わり、野鳥撮影も絵になりにくい季節なので、ここしばらくは近郊の溜池に飛来する鴨類の様子などを外出の合間に双眼鏡でチェックする程度でしたが、昨日は少し時間ができたのでカメラ持参で出かけてきました。
まずダム湖のオシドリですが、未だ集結は見られず。
マガモとカルガモが数グループ確認できただけで、広い湖面も閑散としたものでした。
溜池は二ヶ所。
コンクリート護岸の大きい方は四日前にチェックした際にはカルガモ、コガモ、ハシビロガモ、カワウ、キンクロハジロなどの比較的大きな群れが湖面に漂っていて、中に一羽だけヨシガモの雄が混じっていたので、期待したのですが、今回は数も減って、カワウとヨシガモは確認できませんでした。
小さい方も前回はホシハジロとオオバンが見られましたが、今回はオオバンとコガモだけ。
ただし池を跨ぐ鉄の橋の欄干にダイサギとアオサギが並んで止まっているのが微笑ましい感じでした。
ここは秋に一度だけカワセミも確認しているので、それ以来定点チェックポイントに含めることにしています。
とまあ、これといった成果らしいものは撮れなかったのですが、我が身をかえりみて少し思うところがありました。
よくブログなどで「バーダー」という表現を目にします。
筆者自身も使うのですが、これには「バードウォッチャー」や「野鳥カメラマン」あるいは「野鳥撮影愛好者」という意味があるように思います。
本来はバードウォッチャーのみを指していたのかもしれませんが、最近は後者の数が急に増えたので、「見る」人達より「撮る」人達の方が優勢な状況に感じます。
あるいは、これまでバードウォッチャーであった人が、撮影機材の普及と高性能化、野鳥撮影に特化した設定の追加や操作の簡易化で撮影ハードルが下がった故に容易に撮影者に転向できるようになったともいえるでしょう。
「見る」ことの楽しさや「知る」ことの奥深さはそれはそれで大きな魅力ですが、やはり見る対象をフィールドでの体験だけではなく形に残したいと思うのも人情というものでしょう。
野鳥撮影に適した撮影機材そのものは決して安価ではありませんが、フィルムカメラからデジタルカメラに移行したことはトータルなコスト削減に繋がり、また現像、プリントという手間を経ずに直接結果を確認できる安易さが、野鳥撮影の底辺を広げたことは間違いありません。
たまに有名な探鳥地などで大勢の大砲レンズの合間に双眼鏡だけを持って対象を観察している方を見かけることがあります。
今となっては場違いに感じるほど希少な存在ではありますが、逆にあさましさばかりが先立つ大砲ユーザーに比べると、なんとも爽やかで、本来的な品位や矜持のようなものすら感じることがあります。
そこで今回感じたことに戻ります。
「野鳥カメラマンは果たして野鳥を見ているのか?」
ということです。
確かに苦労して探鳥地を探し、季節ごとに異なる場所に通い詰め、時には何時間も出現を待ち続けて、現れれば撮影に最適なポジションを確保、次に余裕があれば理想的な構図になるように画角とアングルを調整し、さらに対象の野鳥が少しでも長く留まるのをひたすら祈りながら、数少ないチャンスを捉えてシャッターを切る。
そんな苦労の末に撮った写真に意味や価値を見出すのは当たり前といえばその通りでしょう。
ただ撮影者の意図は結果として撮れた画像が自らが思い描く「良い写真」となることであって、必ずしも対象の野鳥そのものではないような気がします。
確かにベテランになると対象の野鳥の生態もよく知っていますし、微妙な個体差の識別もできるほどの眼を持った方もいるようです。
だとしても撮影者である限り、眺めるのはあくまでファインダー越しであって、細かい観察や検証は撮影後の画像によることがほとんどではないでしょうか。
自身、珍しい鳥、気に入っている鳥、憧れの鳥など目の前にいれば、まず撮ることを考えます。
「このチャンスを逃してなるものか!」と、結局あさましさが先に立って、その鳥をじっくりと観察する余裕はなきに等しいわけです。
夏鳥も冬鳥も、当然留鳥たちも子孫を残し、あるいは命を繋いでゆくために飛来し、採餌し、子育てし、中には長い長い旅を耐えた後にようやく私たちの前に姿を見せてくれます。
「木を見て森を見ず」という喩えが適当かはわかりませんが、観念化したイリュージョンを追うだけではなく、もう少しリアルな存在そのものに眼を向けてみたいものです。