小さな山を越えて廃屋の並ぶ集落へ降りてきた。
今朝は予定より少し遅れて、ローカル線の無人駅を降り、道沿いの家の人に教えられた踏切を渡って、梅が満開の登山口から歩き出す。
山頂までは杉と広葉樹や照葉樹の雑木が混じる静かな山道だった。
途中山頂手前の開けた尾根の肩で三人の女性パーティーにすれ違った他は山頂も含めここまで誰とも会わずじまいだった。
まだ枯れ色の山頂は展望はないが明るく開けた平で、小さな手作りの四阿と丸太のベンチが少し。
近くには巨大なテレビ中継アンテナが立っている。
上空に入った寒気のせいか、吹き抜ける風が冷たい。
三月も下旬とはいえこんな南部の里山でも春はもう少し先らしい。
早々に昼食を終えてイノシシの痕跡の目立つ林間を下ると、やがて竹と杉が混じる尾根の突端に朽ちかけた社が現れる。
回りにも苔むした道祖神や石仏、墓石などが集められていて空を閉ざす樹冠の下で一層暗く寂しげに見えた。
廃村はそのすぐ下にあった。
半ば竹が浸透し、雑草に覆われた更地や半分程屋根が崩れ落ちた廃屋。
そして唯一最近まで人の暮らしがあったかのような雰囲気が漂うまだ原形をとどめた家。
全部で三軒程が軒を並べた集落だったのだろうか。
比較的往時の姿を留めているその家の縁側にそっと腰を降ろす。
目の前の庭には雑然と古びた生活用具が散乱し、傍らにはレンギョウが黄花をほころばせ、水仙がそこここに花を咲かせている。
まだ芽吹き前の庭木も梅を始めとして様々な種類が植え込まれている。
丁度庭の中央、南東方向は斜面の森が開け、晴れていれば遠く麓を流れる川の流域を見下ろす展望があるのだろう。
まだここに人の暮らしがあって、隣家と互いに支え合いながら日々を送ったであろう時、ここからの景色や丹精した庭の佇まいはきっと大きな慰めだったのだろうと思わずにいられない。
そんな穏やかな時間が今も静に流れている。
家の造りに目をやれば、その土壁の色や木組みの様はどう見ても明治から大正にかけての建築のように思える。
こんな畑すらまともに作れない山の急斜面にあえて三軒の家が建てられたとき、確かにそれを支える生業がここにはあったのだろう。
主に林業、そして後に養蚕、というのが一つの典型だとしても、それ以外にもこの場所に住む必然があったのかは今となっては知る由もない。
産業形態の変化、社会環境の整備、あるいは生活水準の向上、と言ってしまえばた易いけれど、ここでの暮らしが途絶えた経緯はそれほど単純なものではないはずだ。
何世代にもわたって暮らした家族。大人達にとっては労働の苦労も徐々に安定する生活への喜びへと変わり、麓の学校まで険しい峠道を当たり前に通う子ども達は季節毎に変わる自然の表情を直に感じながら野山を駆け回ったに違いない。
苦労も不便も幸福もある意味相対的な観念でしかない。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」と室生犀星は詩に綴ったけれど、故あってこの地を去った人々の思いを一介の他者が計り知ることは到底できるものではないし、する必要もないのだ。
ただここに厳然とあった生活、家族の団欒、この春を迎える季節に感じたであろう喜びや希望、そんなものに思いを馳せながら、また自らの過ぎ去った時間の中に確かに同じ風景があったことを思い起こして暫くその場を立ち去ることができなかった。
ぱらぱらときた雨も上がった。
麓ではきっと桜が咲いている。