北穂南峰が目の前に聳える岩棚に腰掛けている。
濃いガスの中、波打つ岩尾根を辿ってここまで歩いて来た。
5時前に岳沢のテントサイトを立った時にはまだ月が冴えていた。
それから9時間は行動したわけだ。
一人で歩いている時には山だけに向き合いたいが故に人を厭う気持ちと、無聊を慰めるささやかな会話を楽しみたい気持ちとが何故かない交ぜになる。
不思議なものだ。
今朝テン場からの唯一の先行者だった親子。
子供はまだ小学校低学年のようだったけれど、前穂の長い登りで全く疲れる様子もなく父親と山のことなどよく話し、ヘルメットをかぶってまるで一人前の登山者のようだった。
自分の子供と山に登るというのはどんな気持ちだろう。
ましてや穂高のような岩場では天候の急変や落石、不意の病気のリスクも過小評価はできない。
それでも我が子をここに連れて来た父親の心情もまったくわからないわけでもない。
親も子もこれからの人生の中では何度か互いに反目し、ぶつかり、決して短くはない距離を置くこともあるに違いない。
それでもこの夏の終わりの山旅はそれぞれに色褪せず、ふとした機会に思い返し、そして決して忘れることはないだろう。
羨ましいものだ。
父よ、少年よ、どうか良き人生を!
ガスが少し晴れて弱い日差しが岩の上に届く。
それだけでも岩は確実に温かくなる。
できればしばらく横になって一眠りしたいと思う程だ。
こんな時の岩は何故か優しい。
見えるのは周囲の岩とぼんやりと霞む南峰ばかり。
最低鞍部で追い越した三人パーティーの姿もまだ見えない。
年配のガイドか小屋の関係者か、とにかくとてもタフなリーダーが叱咤しながらバテ気味の初心者風の二人を引率していたけれど。最後に見た時には涸沢が眼下に見えるルンゼあたりで鳩首談合中だった。まさか降りる算段でもあるまいが。
再びガスが巻いて南峰がかき消される。
汗も引いた。
そろそろ腰を上げて北穂に向かう時間だ。
今日こそ背中の当りが無いテントサイトを見つけよう。
そして昨日自粛した冷えたビールを開けてみよう。