色褪せた紫陽花を見かけた。
高原の紫陽花は意外に遅く咲くものだ。
普通紫陽花といえば梅雨時という印象があるが、八ヶ岳の山麓では8月が見頃となる。
そして予想以上に花期は長いのだが、さすがに9月の声を聞けばその盛りも過ぎてしまうのだろう。
子どもの頃、何故か紫陽花を見た記憶がない。
紫陽花といえば本の中に出て来る挿絵か折り紙で作られたレリーフ様の造花だけだったような気がする。
今でこそ標高1000m辺りの庭先に植えられているのを時々見かけるけれど、当時の気候は今よりもずっと厳しく、冬ともなればマイナス20度を下回ることもあったのだから、とても冬越し出来るものではなかったのかもしれない。
そのせいか後年「本物」の紫陽花を初めて見たときは、変にメタリックな造花じみた佇まいがいかにも通俗な印象を与えて、好きになれなかった。
無論紫陽花が多くの園芸種の花同様、幾多の品種改良の末に作られたものだという知識はあったはずだから、そんな人工物の権化のような不自然さに対する反発もどこかにあったのだろうと思う。
「メタリック」という印象は大方そんなところから来ている。
そんな通俗の代表花が、違って見えだしたのはいつだったか。
紫陽花様の野草にはユキノシタ科やスイカズラ科に数種が属していて、ヤマアジサイ、ノリウツギ、ツルアジサイ、コアジサイ、タマアジサイ、カンボク、ヤブデマリ辺りが八ヶ岳近辺では身近にあげられる。本当は野草というより木本なのだが。
日本海側には青紫色のエゾアジサイもあってこれも美しい。
そしてこれらの花はどれも清楚で、咲き始めの可憐さから冬枯れた佇まいまでがどことなく日本の花という印象で、以前から漠然とした好感は持っていたのだった。
認識が改められたのは数年前に南アルプスの最深部、赤石岳と荒川三山へ初めて登ったときだったと思う。
登山基地ともいえる椹島へ入るには静岡から大井川沿いを遡ってゆくのだが、途中に井川という集落を通過する。
ちょうど7月の終わり頃、この集落の路沿いには無数の紫陽花が咲き乱れる。
各家の庭に植えられた微妙に色の異なる紫陽花の花叢が連続する光景は、走り過ぎる車窓から見れば流れる色彩の明滅だ。
またそこに至るまでの山深い谷合に点在する小集落の庭にもまた例外なく紫陽花が植えられて、川沿いの狭い耕地に作られた茶畑と共にこの時期の山間の風景を見事に完成させていたのも印象に残っている。
そんな庭のひとつに車を寄せて夕暮れの薄闇が漂うなか、暫し見入ったものだった。
そしてその中でも特に魅了されたのはガクアジサイ。
この装飾花と両性花が見事にバランスした大振りな紫陽花はその凄絶感さえ感じる青さとともに強烈に心に響いたことを覚えている。
その後この嗜好はガクアジサイから全てが装飾花のいわゆる「アジサイ」、かつて毛嫌いしていたメタリック紫陽花ヘ向けられるようになったのも、今となっては自然な成り行きだった気がする。
よく紫陽花の色彩は土壌の酸度によって決まるといわれるが、実際はアルミニウムイオンの働きが大きいのだという。
ということはメタリックな印象というのもあながち間違いではなかったというべきだろうか。
特に青花が好きだ。
いわゆる水色からコバルトブルーへの多様な段階変化。
一花の中に展開する淡緑色からセルリアンブルーへのグラデーションの美しさ。
学名Hydrangea(ハイドランジア)、「水の器」といわれる由縁だろうか。
紫陽花が枯れ果てる頃には、高原の夏もひっそりと終わる。